日本酒の歴史~江戸~
こんにちは!管理人のハルです!
今回も前回の続きで日本酒の歴史を調べてみました。
暇つぶしにどうぞ!
日本酒の歴史 室町~安土桃山
室町時代の後期には僧坊酒が盛んに造られるようになりました。
日本清酒発祥の地である菩提山正暦寺を中心に技術が確立され、現在の清酒造りの元となる『諸白(もろはく)』という技術が生まれました。特に奈良県で広まった諸白は南都諸白と呼ばれ、現在の純米大吟醸といった高級な酒として人気があったそうです。
ちなみに諸白とは麹米と掛け米(蒸米)の両方に精白米を用いる製法の名称になります。現在の清酒とほぼ変わらず、透明度が高いお酒だったそうです。
しかし、戦国時代の後期になると寺院の力は衰退し、同時に僧坊酒も減少しました。僧坊酒の技術は民間の酒造家に継承されていき、地方に広まりました。
有名な話としては豊臣秀吉による朝鮮出兵は地方に広まったきっかけの1つと言われています。南部諸白のみが潮風に耐え香りや味が変化しなかったことから中継基地であった九州や瀬戸内でより広まり、人気がありました。
~江戸時代~
江戸時代の酒造りは現代とほぼ変わらなかったとされています。
現在の酒作りの基礎となる『寒造り』という酒造方法もこの頃にできたそうです。当時のお酒は味が一定ではないことや、雑菌により腐敗してしまうなどの問題がありました。
そんな中、兵庫県伊丹市にて寒造り三段仕込みが考案されました。
寒造りとはその名の通り、雑菌の繁殖しにくい冬にお酒を仕込む手法になります。そのため、雑菌によるお酒の腐敗を防ぐことがでっきたそうです。また、冬に仕込み、春から秋にかけて熟成させるためお酒の消費量が増える年末から正月にかけて品質の良いお酒を販売することができました。
寒造りの広まり
江戸時代初期に幕府が寒造り集中政策というものを実施しました。この政策のもあり、寒造りの技術は伊丹だけではなく、各地に広まるきっかりとなりました。
また、酒造りには大量の米を使用するため、主食の米不足とならないよう、冬の期間のみ酒造りを行うようにし、供給量を調整していました。
当時江戸には全国の物資があつまっていました。その中に酒も含まれており、
上方で造られたお酒は『下り酒』と呼ばれ、人気があったそうです。
中でも伊丹や池田で作られたお酒は特に人気が高かったそうな。
その頃の江戸までの輸送方法は馬から船へと変わりました。
運ぶ酒の量が増えると『酒樽廻船』と呼ばれる専用の船もできたそうです。
ちなみにこの頃から酒造りも免許制となり、1657年に酒株(さけかぶ)制度を設け、無株の酒作りが禁止されました。
酒株とは将棋の駒の形をした木製の鑑札で、現在でいう免許証のようなものを指します。
この鑑札には酒造石高というものも書かれていたそうです。酒造石高とは酒株をもった酒造人が生産する酒の量のことをいいます。
また、酒株制度にすることで酒蔵の規模によって使用できる米の量をその年の米の収穫量に応じて調整も行っていました。
江戸時代中期~後期
江戸時代中期からは日本酒の人気は伊丹や池田から灘へと変わりました。
灘のお酒は江戸にて7~8割も占めていたそうです。
灘の日本酒に人気が出た背景の1つに水の発見があります。
この水は西宮市で発見され、『宮水』と呼ばれました。
宮水は高度が高く、ミネラルが豊富なため、酒造りに適していた。それに加えて寒造りに最適な六甲颪が吹いていたなど、様々な条件が重なり、上質な辛口日本酒を作り出しました。
そういった要因もあり、灘は寒造りに特化した技術を編み出しました。それまでは足踏み式で行っていた精米を水車を使った精米技術を編み出したことで大量の精米が可能となり、日本酒の大量生産へと繋げていきました。
また、灘は港町でもあるため、江戸までの輸送が早く出来、品質を保ちやすかったのも人気を得た要因の一つと言われています。そのため、伊丹などから職人が灘へ移ることもあったそうです。
おわりに
日本酒の歴史を調べれば調べるほど次々と興味がそそられて個人的に楽しく書くことができています(笑)
家事・育児に追われてブログを書く時間がなかなか取れず時間はかかりまくっていますが。。。
今回調べている中で、ある酒造会社にて江戸時代のお酒を再現した商品を見つけてしまいました(笑)
非常に興味深いので今後、購入して飲んでみたいと思います!
次回も日本酒の歴史について書いていきたいと思います。
新型肺炎も怖いですが、インフルエンザもまだまだ流行っております。
皆さま体調にはお気をつけてお過ごしください。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございます!!
ではまた!!
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